2019年8月7日

ラダメス・ニャタリ

Radamés Gnattali
ラダメス・ニャタリ
1906 Porto Alegre, RS -1988 Rio de Janeiro, RJ

音楽界の巨人、ラダメス・ニャタリの業績を簡単まとめるのは先ずは不可能です。
ピシンギーニャやジャコー・ド・バンドリンのように音楽家としての輪郭が明確ではないからです。(この二人を語るのだって難しいのですが)
現代ブラジル・ポピュラー・ミュージック界への影響はこの二人に劣らぬか、それ以上ものがあります。
また彼自身はクラシック音楽家としての業績と自負もあり、話を更に複雑にしています。

取りあえず彼の故郷ポルト・アレグレへと話を急ぎます。

1896年ラダメスの両親はイタリアからブラジルに移民し、ブラジル一番南の州リオグランデ・ド・スルの州都ポルト・アレグレに居を構えました。
父親のアレクサンドロ・ニャタリは日雇いの人夫などから新生活を始めましたが元来の音楽好き、結局ピアノ、ファゴット、ベース演奏を経て楽団指揮者と音楽家への道を歩み、また母親のアデリアも同じように音楽好き、息子たちにピアノを教えました。

この夫婦は最初の3人の子供にそれぞれ、Radames、 Aida、 Ernaiとヴェルディのオペラの主人公の名前を与えています。貧乏ながらも音楽がいつも流れている家庭が想像されます。

ラダメスは産まれた家(中心地区近くのフェルナンデス・ヴィエイラ通り)の近所のイタリア人学校に通っていましたが、結局14歳で学業を放擲していましました。
理由は、彼自身の言に拠れば「吃音の所為で口答試験で零点を取ったから」ということでどこまで信用していいのか疑問ですが、父親が心配して「将来何になりたいか」と聞いたところ「音楽家だ」と答えました。
それで父親の勧めに従ってポルトアレグレ音楽学校(今の国立リオグランデドスル音楽大学)ピアノ学科の5年次に入学し、ここに9年間在籍しました。
本人曰く「当時はあの馬鹿げた入学試験が無かったから入学できた」とのこと。この学校でヨーロッパクラシック音楽を学びました。

大学時代も教授のフォンタイーニャ(Fontainha)に連れられ、リオデジャネイロでコンサートに参加していますが、最終的にリオに拠点を移したのは1931年です。
フォンタイーニャ先生からの「リオデジャネイロ音楽学校の教授の口がある」と手紙でポルトアレグレのすべてを投げ打ってリオに出てきました。そこで就職試験を4-5ヶ月待ちましたが全然何も起きません。
ラダメスは痺れを切らし、ポルトアレグレの政治家の紹介状を持って当時のブラジルの大統領ジェツリオ・ヴァガスの元を訪ねました。
数日して「会っても良い」との電報を受け取り、再度大統領官邸に出かけました。
大統領はこの若造に「セニョールは何が欲しいのだ」と聞きます。
「この年末までに就職試験があるかどうかだけが知りたいのだ」と彼は返事をしました。
大統領が威厳を持って言うには「有りますとも、この私が約束します」とのことでした。でも古今東西、政治家の言葉はあてにならないとの常識の通り、何も有りませんでした。

その頃が一番悲惨な頃だったらしいのですが、「すべての音楽家にとって同じような状況でした」と彼自身が語っています。

1930年前後ラダメスはアルバイトでラジオ局の音楽番組でのピアニストの職を見つけます。
最初はラジオ・クラブ(Radio Club)、次がカジュチ(Radio Cajuti)、そして彼の名前を確立したラジオ・ナショナル(Radio Nacional)です。

後年「ポピュラー音楽は好きで、これが人生にもたらしてくれた事に感謝している。でも最初はクラシックの音楽になりたかった」と語っています。
ポルトアレグレ時代にも、家の近くの映画館やバーでポピュラー音楽のピアノ弾きで金を稼いでいたこともありますが、結局このラジオ・ナショナルでの仕事が彼の人生の重要な位置を占めることになりました。

ラジオ・ナショナルでは約30年ほど働き、ラジオの時代とも合いまち、ポピュラー音楽番組「百万個のメロディー(Um Milhao de Musicas)」の影響力は計り知れないものがありました。

番組は毎週水曜日に放送され、ラダメスはピアニストではなく編曲者として、毎週9曲の編曲をし続けました。
何しろ広告主に気兼ねすることが無い国立のラジオ局で予算も豊富に有ったようで、思い切り好きなように編曲したようです。

放浪画家、山下清の「それを兵隊の位で言うと?」では無いですが、よく分からない物や事柄を何か他の物に例えてシンプルに説明しようとすると大概見当はずれに終わるのですが、そこを無理して「百万個のメロディー」とラダメスを「日本では何か?」と考えて見ました。
思いついたのは日曜日の朝の長寿番組「題名の無い音楽会」と黛敏郎です。しかし、やはり見当はずれですね。これに服部良一を足して、それからもう少し何か「変なもの」を加えて割った感じになりましょうか。

ラダメスのコメント集

エルネスト・ナザレ

エルネストが、リオブランコ通りとセッチ・デ・セテンブロ通りの交差点にあったオデオン劇場で弾いていたのは、私が25-26歳だった頃で、そこで彼を知りました。ある日劇場前を通り過ぎるとピアノの音が聞こえ、それは彼自身が弾いている音でした。
今のピアニスト達は彼の曲を弾くべき形で演奏していないと思う。それは多分エルネストをただの街場のピアノ弾きと思っているからでしょう。
エルネストはスタッカートを全然使わず、まるでショパンのようにペダルを使って弾いていました。本当に良いピアニストでした。

ガロート

私はショーロを吹こうとフルートを買いました。
偶然サンパウロ400年記念曲で得たお金でガロートが私の牧場隣の敷地を手に入れるとまだ家が完成する前から引っ越してきました。
夜になると彼がギター、私がフルートで合奏をやっていましたが、私は「世界で一番優れたギター演奏家」の最悪のフルート伴奏家でした。

ピシンギーニャ

ピシンギーニャを知ったのは,1930年代彼がチラデンテス広場のダンスホール、エルドラドで演奏しているときでした。
当時良くあった小さなジャズバンドで時々ショーロも演奏していて、そこで私も学んだものです。
その後私達はジアボス・ド・セウ楽団(Orquestra Os Diabos do Ceu)で一緒になりました。彼はサンバの編曲もやっていて、それに彼のフルート演奏も作曲もとても優れていました。
当時の彼は楽団の為少し古臭いスタイルで編曲し、私はピアニストとしてそれらの曲を弾いていました。
私がロマンティックな曲を編曲すると、今度は彼がフルート、ロメウ・ジピスマン(Romeu Ghypsman)がギターを演奏してくれました。
その後ピシンギーニャと随分親しくなりました。彼は私にとって父親のように特別な人間でした。
そして作曲家としてもフルート吹きとしても最高だったのは言うまでも有りません。

カメラッタ・カリオカ

ある日ジョエル・ナシメントが家を訪ねてきて、私の「レトラトス」をオーケストラ曲からバンド曲へ編曲してくれと頼んできました。
私はうまく行かないだろうと思っていましたが最終的には良く出来ました。カメラッタと一緒に働き始めたとき、彼らはよくやると思いました。
つまり「学びたくてそして演奏したい奴等は自然と良く学んで良く演奏できる」と言うことです。

貝塚注:78年(79年?)結成のカメラッタ・カリオカのオリジナル・メンバーは、Joel Nascimento (bandolim), Raphael Rabello (7cordas), Luciana Rabello (cavaqinho), Mauricio Carrilho (7cordas), Celsinho Silva (pandeiro)(この編成はカリオキーニャスですね)。
で、上記レトラトスの演奏の為に編成されていましたが同年のジャコーへの追悼プロジェクト演奏にあたりエルミニオ・ベロ・デ・カルヴァーリョ(Herminio Bello de Carvalho)がこのグループの名をカメラッタ・カリオカと名づけました。

グループにはもう一つの編成があります。(82年)
Joao Pedro Borges (7cordas), Henrique Cazes (cavaquinho), Beto Cazes (pandeiro), Edgar Goncalves (sopro) です。
こちらの方はLPの”Vivaldi & Pixinguinha”の録音の為に編成されました。

トム・ジョビン

私がコパカーナに住んでいた頃トムはよく訪ねてきた。
彼は落ち込んでいて私に助言を求めてきた。私はトムに言った
「誰も君に教えるなんて出来ないよ、私にも同じようなことがあった。結局自分の中にあって外に出る準備が出来たものを出していくしかない。捕らえられていても何も起こらない。君は誰かを探す必要なんか無い。何故なら誰も君を導けないからだ。君はピアノやオーケストラ向けの良い曲を書くと思うよ。君が指揮して、私がピアノを演奏する」と。
で、結局そうなった。
トム曰く。
「あれはラジオ・ナショナルだったと思う。私はあの無能な奴等への恐怖で死にそうだった。ラジオ労働組合の人間が、ストップウオッチを片手に『練習はそこまで』と叫ぶんだ。そこでラダメスはこの猛獣達との間に入って助けてくれたよ」

以上。

やはりラダメス・ニャタリの事跡はまとめ切れませんでした。
ラダメスはリオデジャネイロで亡くなりました。82歳でした。

Casa do Choro Acervo

Dicionario Cravo Albim

ショローンとその時代