「ショーロはこうして誕生した」とローマ喜劇

アニマルの「オ・ショーロ」 邦題「ショーロはこうして誕生した」の出版から3年経ちました。翻訳中に悩んでいた箇所のひとつが偶然に解決されました。

<「ショーロはこうして誕生した」185章 昔のフォリオンたち 177頁>に出て来る単語、「アンフィトリオン」が辞書にも載っていないし、語源を調べて意味を想像してもどうしてもしっくりこなかったのです。

アニマルの原文:desejando aos amphytriões saude e fraternidade.

訳文:(願うは)アンフィトリオン、同胞の健康だ。

訳注:アンフィトリオン ギリシャ神話の登場人物。ジュピターがアンフィトリオンにそっくりに化け、彼の妻を篭絡した。モリエールに同名の戯曲がある。同胞の意か。



先日、中公新書「ローマ喜劇:知らざる笑いの源泉」(小林標著)を読んでいたら、ローマ喜劇作家プラウトゥスの劇「アンピトルオ」(ギリシャ由来の物語)が中世近代とヨーロッパ演劇に引き継がれ、ジロドー「アンフィトリオン38」、モリエール「アンフィトリオン」もそれの一つであると書かれているのを見つけました。何か胸の中で動きました。次のページに、「この題名が別の意味に使われ、フランス語amphtryon『客を接待する主人役』、スペイン語amfitorion『ホスト』になった」とあります。

そこで思い出しました。アニマル本の翻訳中に悩んでいた箇所です。
まさかローマ喜劇経由とは。再度ポルトガル辞書で調べたら、anfitrião 食事を振る舞う「主人役」というのを見つけました。
いつか訂正ができるのなら、その時のためのメモです。

こんな感じに。

訂正訳:ご主人たちの健康と友情(を願いながら)

訂正訳注:ご主人たち(amphytriões ) アンフィトリオンの複数形。アンフィトリオンとはギリシャ神話の登場人物。ジュピターがアンフィトリオンにそっくりに化け、彼の妻を篭絡した。この話がBC3世紀頃に活躍したローマの劇作家プラウトゥスの劇「アンピトルオ」の元になり、更にジロドー「アンフィトリオン38」、モリエール「アンフィトリオン」にも受け継がれた。主人公(妻をジュピターに寝取られた)の役割よりその意味が掬い取られ、フランス語 amphtryon、スペイン語 amfitorion、ポルトガル語 anfitrião 「(食事を饗応する)主人」となったようだ。(半分推測ですけれど)

反省:m→n、ph→fという「ショーロ…」の口述筆記者の癖というか、元原稿から現代ポルトガル語へのダブル変化を不覚にも見逃してしまったのと、語源調査をギリシャ劇だけでローマ喜劇には及ばなかったこと。こんな面白い話なのに。

「ショーロはこうして誕生した」

ショローンとその時代

フォンフォンブログ

おヨネとコハル ヴェンセスラウ・デ・モラエス

ねんおヨネとコハル ヴェンセスラウ・デ・モラエス著 岡村多希子訳 彩流社 1989年

モラエスの「徳島の盆踊り」(岡村多希子訳)に驚いて(彼の日本人の死生観の観察に)同じ訳者のモラエス本を探した。
死者との距離感が微妙なのは同じ。作者と訳者が同じなので「徳島~」と同じテイストで同じような感慨を持って読んだ。

コハルの末の妹チヨコが小銭を盗んでいく話はブラジルでのエンプレガーダ(昔なら女中と訳したのだろうけれど)との少しビターな思い出が蘇ってきた。

普通、訳者は原作の現代的再評価とか時代的重要性などを書き連ねて、翻訳がいかに価値がある仕事なのかと弁明するのが一般的なのに、岡村さんのあとがきはモラエスの感情に対して妙に冷静なのだ。
モラエスがリスボアを逃げ出さなければならなかった理由をイケナイ恋愛事件(辛くて忘れたくても忘れられない)の所為だと推測し、マカオの女性や神戸の芸者おヨネ、コハルとの関係はレンアイではなく「現地妻」とあっさり呼ぶ覚悟につい引き込まれてしまった。
岡村さんを存じ上げないけれど、親近感がぐっと湧いてきた。

文明国ヨーロッパから未開のアジアに逃げて来たモラエス(心はヨーロッパ、体はアジアに引き裂かれていた)にとり、おヨネとコハルとチヨコの墓を詣でる(死者を思い出す)のが安らぎになるとは、なんだかおかしくて悲しい。
庭石に飛んで自死を図り、リスボアへ還れたのだろうか。

話は違うけれど、赤塚不二夫の「もーれつア太郎」に出て来る蛙の「ベシ」。片目でちょび髭で「ベシ」が口癖。(夜はねるべし!)(1968年)
「明日のジョー」(1967年)の丹下段平も片目の髭男。ジョーへの教えはジャブはえぐるように「打つべし!」。
ほぼ同じではないか!と、さっき気が付いた。(「七人の侍」由来説が多いようですが)

おヨネとコハル 彩流社

フォンフォンブログ

徳島の盆踊り ヴェンセスラウ・デ・モラエス

徳島の盆踊り ヴェンセスラウ・デ・モラエス
愛妻ヨネの故郷である徳島に移住し、妻の名前を一切口にすることも無く、あの世とこの世が地続きである日本の風土を愛しながらも、西洋人としてはそうはいかぬとの思いもあり、また墓石と墓石の間を漂白し、死者の世界に思いを寄せるモラエス。
五十九歳。
愛おしきものは石、虫、猫。

土佐日記、枕草子、方丈記、徒然草に続くエッセイ。

千九百十四年の盆踊りから千九百十五年の盆踊りまでの1年間。何も起こらなかった。(第一次世界大戦以外は)

「ドン・キホーテ」の最後のシーンと同じ静けさがある。すべてが起こり過ぎ去った後、思い出だけが残された時間が持つ静けさだ。

モラエスの日本随想記 徳島の盆踊り
フォンフォンブログ

七つの夜 ホルヘ・ボルヘス

ホルヘ・ボルヘスの「七つの夜」を沖縄旅行に持って行った。

第一夜の「神曲」を読みたくて手にしたのに、ボルヘスが1946年ペロンの為に追われて去った図書館を探し出せてラッキーだった。
ラプラタ大通りとカルロス・カルボ」通りの交差点近く、ブエノスアイレス市立ミゲル・カネ図書館。リンク La biblioteca donde trabajó Borges

第五夜「詩」ではフェニキアの船乗りの祈祷文に驚く。

カルタゴの母よ、私は櫂を返します。
私は眠り、それからまた船を漕ぎます。

スペインの詩

誰がそのような幸運に
海の上で巡り合っただろうか
サン・ファンの朝
アルナルドス伯が出合ったように

まるで西脇順三郎の詩だ、、というより、西脇順三郎がギリシャ、ローマ、スペインの伝統の流れに船を漕いでいるのかもしれない。

ラオコーンのような
粋な
旅人

松岡正剛 ホルヘ・ボルヘス

フォンフォンブログ

ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ

1月の中旬からセルバンテスの「ドン・キホーテ」を読み始める。全6冊。1605年の出版。異端審問所があって、レコンキスタの記憶も生々しく、レパントの海戦でセルバンテスは片腕を失う。そういう時代だ。僅か300年前にダンテが「神曲」を書いている。

昨日ようやく第6巻目に突入したのだが、寄り道の連続。ホルヘ・ボルヘスの「七つの夜」の最初が神曲についてで、セルバンテスへの言及もあり、読み始める。(ボルヘスがペロンに追い出された図書館も気になる)

そういうことで、「ドン・キホーテ」、「神曲」、「デカメロン」、「アエネーイス」、ボルヘス、新約聖書が机の上にある。
中々片付かない。

松岡正剛 ドン・キホーテ

オーラ・デ・ショーロ

ラジオ番組「オーラ・デ・ショーロ」予定表ページを再開。
ツイッターで励まされての再開で誰も興味が無いと思っていた所で強力な心の援軍だった。
今回は音無し。音有りは大人の世界の権利がややこしい。

昨年11月でショーロの音楽配信を停止して若干エネルギーが下がり加減の所を海外からのサイト攻撃でサイトがダウン。
配信停止していてよかったと思う反面、再開への意志が強いとも言えなかったのは事実です。
「ショローンとその時代」を中心に再開作業していますが、スピードは15キロメートルぐらいで自転車並です。
完成まで長い目で見て下さいと、見知らぬショーロファンにお願いしています。

フォンフォンブログ

フォンフォンのスタート

今から一月前、海外からのサーバー攻撃でサイトがダウン。
「こんな小さなサイトに興味のある泥棒はいないだろう」と高をくくって昼寝をしていたらいきなり枕を抜き取られた気分です。
「君たち、雲助の追剥のゴマノハエのコチンポコ野郎、そういうことをして楽しいのか?儲かるのか?」と聞けば多分「楽しくて儲かる」と返事をするのだろうな。何しろコチンポコ野郎だから。

しかし僕は不敵に笑っています。
「丁度、作り直そうと思っていたこと所なんですヨ」(先代の林家三平が遅れて来た客に向かって放った「丁度噂していた所なんですヨ」から頂きました)
サイトを「読むショーロ」に変身させ、「古い革袋」を仕立て直そうとしていた所だったんです。

しかし強気もここまで。
本当は「チックショー」とコウメ太夫のように泣きたい気持ち。

PCの奥の方の棚に仕舞ってある色んなファイルを取り出して埃を払って化粧を施しショーケースに並べ替える作業が続くでしょう。

しばらくブログに「仕立て直しの日々」を書き留めます。

ルネッサンスーっと。