カツロ <アニマルの「オ・ショーロ」>
「ドン・キホーテ」を2年がかりで読んでいる。
セルバンテスが比喩や引用で縦横無尽に利用している多くの古典はヨーロッパ人であれば幼いころから空気のように親しんでいるベーシックな教養なのだろうけれど、東洋の小島で生まれた僕は肌ではなく頭で理解せざるを得ない。
仕方が無い。
理解したいという好奇心が面倒くさいという怠惰な心に打ち勝ち、ヨーロッパカルチャーの基層の一つであるバイブルを頭から読み始めた。(適当なページを繰ったことはある)
そしてある個所に至った時に何かがピカっと光った。「ヨハネによる聖福音書」の最後の部分で何かが引っかったのだ。(21節25)
日本語訳(ドン・ボスコ社版)では
「イエズスがおこなわれたことは、…一つ一つしるしていたら、その書かれた本を入れる為に、全世界さえもたるまいと私は思う」
ネットでポルトガル語版を探したら直ぐに見つかった。まことに便利な世の中である。
Há, porém, ainda muitas outras coisas que Jesus fez; e se cada uma das quais fosse escrita, cuido que nem ainda o mundo todo poderia conter os livros que se escrevessem.
当たり前だが日本語訳の通りである。
引っかかったのはアニマルの「オ・ショーロ」のカツロの章を思い出したからである。
原文(“O Choro” P62 ver. Acari)はこうである。
Para se fazer a biografia de Catulo seria preciso todas as paginas desde livro.
訳すと
「カツロの伝記をつくるとしたらこの本のすべてのページが必要であろう」
似ているような、似ていないような、何処にでもある陳腐な比喩のような気もするが、やはりどこかでつながっている、と思う。
ブラジル人といえばカトリック。幼いころからバイブルを読み親しんでいるだろうから気付かぬうちに似たような表現をしたのか?
ヨハネとイエズス、アニマルとカツロ。
アニマルは心底カツロを尊敬していたのだろうけれど、バイブルまで持ち出す程の表現が必要だったのか?
ブラジル人ならピンとくるのか?
確かなことは分かないけれど備忘録として残します。
何だか少し儲けたような気分である。