エンリッケ・デ・メスキータ

エンリッケ・デ・メスキータ

Henrique Alves de Mesquita
15/3/1830 Rio de Janeiro, RJ
12/7/1906 Rio de Janeiro, RJ

エンリッケは、ショーロの祖と言われるジョアキン・カラッドシキーニャ・ゴンザガの一世代上に当たりタンゴ(Tango)という言葉を最初に使った曲を作ったとも言われています。

19世紀はブラジルにとって、ヨーロッパからどのように離れるかという命題の解答を求める世紀でした。
エンリッケの生まれた翌年の1831年のペドロ一世の退位から41年のペドロ二世の戴冠までの10年間、各地で共和派の反乱が起きます。ペドロ二世の即位は諸勢力の妥協の産物であり、またブラジルが王制から共和制へ向かう最終章でもありました。
混乱は近代化への道でもあり、国内教育制度の充実が図られ、37年中等教育のための学校の設立(Coledio Don Pedro Segundo)、48年音楽学校の設立(Imperial Conservatorio de Musica)などがなされています。

エンリッケはこの音楽学校の設立年の1848年に入学し、対位法とオルガンの学位を最優秀で終了し、これによりフランス留学の報奨を受けることができました。
翌57年にパリ音楽院に留学し、和声、オペラを学び、66年にリオに戻りました。またこの留学の間、パリ音楽員の教授であったAdolph Saxを知り、彼が創作した楽器サキソフォーンのブラジル紹介者に偶然にもなってしまっています。

このヨーロッパ留学は彼に「ブラジル独自の音楽」を創る情熱をもたらしたようでした。
1868年に作られ72年に発表されたオペラ「アリババと40人の盗賊」の内「闘牛士の目(Olhos matadores)」は、ブラジル最初の「タンゴ」でした。
「ショーロの父」ジョアキン・カラッドがまだ10歳のころ、エンリッケは彼の音楽の教師であり、留学からの帰国後はシキーニャ・ゴンザガやピシンギーニャの父親アルフレド・ビアナ(Alfredo Viana)とも交流がありました。

エルネスト・ナザレもまた、エンリッケの功績を称えMesquitingaという曲を作っています。

 参考:Dicionario Crabo Alvin da Musica popular Brasireila Henriuq Alcez de Mesquita

ショローンとその時代